こんばんは!
都内在住アラフィフ主婦のnicoです。
ひとり時間を楽しんでいます。
今年2月に行った
奈良ひとり旅を少しずつご紹介しています。
初めての長期滞在で
気の向くままに過ごす気まぐれ旅ですが、
お付き合いいただけましたら嬉しいです😊
さて、前回の記事 ↓では
東大寺南大門の仁王像を観た後、
二月堂参詣道を進んで東大寺の中でも
静かなエリアを散策しました。
hitorijikan-nico2.hatenablog.com
今回は
大仏殿から見て東端にある二月堂を後にし、
国宝「転害門」へ行きました。
この2つは以前にわけのたかまろさんが
ブログで紹介されていて興味を持った場所です。





東の二月堂から西へ約10分程
見えてきます。
戒壇堂の
戒壇とは受戒の行われる神聖な場所を意味し、
受戒とは僧侶として守るべき事(戒律)を
確かに履行する旨を仏前に誓う
最も厳粛な儀式を指します。
※受ける側は「受戒」、授ける側は「授戒」。
そして、
戒壇院(院はエリアを表わす言葉)の周囲には
「大界外相」や「大界内相」と記された
結界石が立てられており、
聖域としての清浄を保っています。
戒律は752年(天平勝宝6)に
唐の僧・鑑真和上が来日し、
日本に初めて伝えられました。
日本での仏教発展による官僧の増加に伴い、
規律の乱れが目立つようになり、
戒律を伝える師が望まれたためでした。
鑑真和上は大仏殿前で
授戒したそうですが、
その土壇の土を移して戒壇堂が造られたと
伝えられます。
堂内には仏法の守護神とされる
国宝「四天王像」が安置されています。
奈良時代によく用いられていた
仏像の製作技法の一つで
木を芯にして粘土で塗り固めてつくる塑像です。
木が豊富な日本では長い歴史で見ると、
木彫像が主流なのですが、
この時代は盛唐文化の影響を受けて
より写実的に表現しようとする傾向があったので、
表現の自由度が高い塑像などが
多くつくられていたと考えます。
本堂の四天王像は
天平彫刻の傑作として知られており
見所の一つです。


次に戒壇堂を後にして徒歩10分程北進し、
国宝「転害門(てがいもん)」へ。
大仏殿の北西にあるこの門は
これまで通って来たどのエリアよりも静かで
ポツンと感があるのですが、
知れば知るほど歴史的価値を感じる門でした。
東大寺は二度の戦禍に見舞われており、
ほとんどの建物が再建されていますが、
転害門は数少ない奈良時代の遺構で、
唯一の遺構とされています。
建築様式については勉強不足で
あまり詳しくないのですが、
奈良時代の正統的手法であったと考えられている
「三棟造り」をなしているそうです。
この期で現存するのは法隆寺東大門と
この転害門だけとのことで、
やはり貴重な遺構です。
また、
戦禍を免れた理由の一つに
東大寺境内の北西の隅にあったということがあり、
とても地味な存在に感じますが、
門前の一条通りは
平城宮と直線でつながっているので、
天皇が参拝する時には転害門を通るのが
一番便利だったとも考えられています。
鎌倉時代に行われた改修も
転害門がいち早く対応されており、
京都からの街道に対する
正門の役を担った可能性も高いと
言われています。


気になったのは注連縄ですが、
手向山八幡宮の祭礼
「転害会(てんがいえ)」の中で
御旅所になっているそうです。
※御旅所は神が巡行の途中で
休憩や宿泊をする場所。
神様の通り道なので、
御神輿を安置する場所の天井(左上の写真)は
格式が高いとされる格子の組入天井が
施されています。
また転害会は
749年に聖武天皇が大仏建立の守り神として
東大寺の鎮守としましたが、
その時に八幡神が一条通りから転害門を通って
東大寺に入ったと言われていることが
由来となっており、
この神迎えの様子を再現しているそうです。



実は転害門を眺めていたら、
ボランティアガイドの方が
隣の観光案内所から出てきて
小一時間くらい説明してくださいました。
上述したような内容や
土門拳が魅了された柱(上の写真)のこと、
矢じりの跡がある柱など、
興味深いお話が聞けました。
さらにガイドさんから
陵墓が近くにあるよ。
せっかくだから時間があるなら
行って来なよ~」と
すすめられたので行くことに😊 ↓
hitorijikan-nico2.hatenablog.com
(つづく)
二月堂~戒壇堂~転害門
※二月堂を出発地にすると迂回ルートで示されるので「あかいや」をマークしていますが二月堂の前です。
●参照●
「東大寺」ウェブサイト
「奈良新聞」ウェブサイト
「文化庁」ウェブサイト
「カラー版 日本仏像史」水野 敬三郎、美術出版社
最後までお読みいただき、
ありがとうございました!