こんばんは!
都内在住アラフィフ主婦のnicoです。
ひとり時間を楽しんでいます。
江戸時代に日本にいた
「八重洲」の地名の由来になった人
ということは何となく覚えていましたが、
それ以上は知りませんでした。
しかし、前回ご紹介した植松 三十里著、
『家康の海』を読んでいた時に、
ヨーステンが外交面を支えていただけでなく、
日比谷入り江の埋め立てを
家康に提案していたことがわかり、
興味を持ちました。
1600年、
オランダ人のヤン・ヨーステンは
ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに、
オランダ船リーフデ号にて航海中に
現在の大分県に漂着しました。
家康に重宝され、
和名・耶 陽子(や ようす)や
現在の日比谷付近に屋敷を
与えられたそうです。
屋敷の付近は彼の名にちなんで
「八代洲(やよす)河岸」と呼ばれ、
後に「八重洲」と書かれるようになり、
1954年以降は東京駅の東側が
として残りました。
→ヤヨス
→ヤエス
→八重洲
更に、1590年に徳川家康が
江戸城に入った時は低湿地が広がり、
城下町を割り当てる場所がわずかだったため、
埋め立てて市街地を造成する
必要がありました。
オランダは国土全体が低地で、
西洋諸国の中でも
土木技術が優れていましたが、
特にヨーステンは名士を輩出する家に生まれ、
教育も受けていたので、
土木技術の知識とスキルを
兼ね備えていたそうです。
八重洲の地下街にある
「ヤン・ヨーステンの記念像」
です。
地下街の「外堀地下1番通り」と
「南口通り」が交差する辺りに
ひっそりとあります。
ちょっと探すのが大変かもしれません。
こちらは「八重洲通り」と「中央通り」が
交差する「日本橋三丁目」交差点の
中央分離帯にある
「ヤン・ヨーステンの記念碑」
です。
中央分離帯にあるとは…
何度か通ったことがある場所ですが、
全く気づいていませんでした…
さいごに
単純に考えていましたが、
国益を考えて区別をしていただけで、
外国との接点はあったし、
ヤン・ヨーステンのように
かなり深く江戸の基盤づくりを
支えてくれた外国人もいた
ということを知りました。
ヨーステンは
外交顧問や通史としてだけでなく、
土木技術の面でも江戸幕府に貢献していて、
地名として名前が残る理由がわかりました。
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