こんばんは!
都内在住アラフィフ主婦のnicoです。
ひとり時間を楽しんでいます。
さて前回に引き続き、
夫と横浜を訪れた時のことを
書いています。
●今回のお散歩(横浜・山下町)●
外国との海の玄関口だった横浜をお散歩。クラシックホテルを訪れ、ホテル発祥・伝統料理のランチを味わう。ランチ後は海に浮かぶ文化遺産を見学。
1.【お散歩】ホテルニューグランド
2.【ランチ】ザ・カフェ
3.【見学】氷川丸(歴史)《本ページ》
4.【見学】氷川丸(芸術・技術)
ランチの後はいよいよ今回のメイン
『氷川丸』へ。
山下公園を突っ切って向かいます。
『氷川丸』について
以前から存在は知っていたのですが、
見学するのは今回が初めて。
豪華客船の名残が見られるのかなと
単純に思っていましたが、
意外にも波乱万丈な歴史を辿って来ており、
見応え十分でした。
1930年(昭和5)、
横浜船渠(現・三菱重工業㈱)により
建造されました。
戦前はシアトル航路の豪華客船として活躍し、
戦争勃発後は病院船や引揚船の任務を負い、
戦後は再びシアトル航路に復帰、
1960年(昭和35)に引退して
現在の場所に係留されます。
そして、
2016年(平成28)年に
戦前の日本で建造され現存する
唯一の貨客船として
国の重要文化財に指定されました。
激動の昭和時代を役割を変えながら歩み、
今も文化財としてその歴史を伝えています。
長くなってしまいますが、
氷川丸の歴史について
以下に少し詳細を書きました。
第一次世界大戦後の
1920年頃より投入された
欧米の大型船に対抗して建造され、
当時の最新鋭の船として
竣工されます。
海外へ渡る唯一の交通手段が船であり、
客船文化が花開いた時代。
皇族や著名人なども乗船し、
黄金期を迎えます。
しかし、
1937(昭和12)年に日中戦争、
1939(昭和14)年に
第二次世界大戦が勃発。
遠洋航路が次々と休航に追い込まれる中で、
在外邦人や在日外国人を乗せて、
横浜/シアトル間を往復します。
1941年(昭和16)からは
海軍に病院船として徴用され、
改装後に南方戦線に赴き、
約3万人の戦傷病兵を収容し
内地へ輸送しました。
任務中に3回も触雷したそうですが、
シアトル航路の過酷な荒波に耐えられるよう
厚い鋼板で頑丈に造られていたことから、
大破沈没を免れたそうです。
1945年(昭和20)に終戦を迎えると、
病院船のまま復員兵や一般邦人の
引き揚げ輸送の任務に就きます。
特に南方に取り残された軍人は
飢餓状態にあり、
復員は一刻を争う状態だったそうです。
1947年(昭和22)からは
GHQより外国航路が
許可されていなかったため、
大阪・横浜/北海道間を結ぶ
国内での定期航路に就航。
そして、
まだ占領下にあった1949年(昭和24)、
深刻な食糧不足を背景に
米輸送のために外航に復帰しました。
その後、
再び華やかな時代へと移り変わり、
氷川丸も大改装を行って
戦前の貨客船時代の姿を取り戻します。
1953年(昭和28)には
主にフルブライト留学生を運ぶために
シアトル航路に復帰。
日米文化交流の懸け橋としての
役割を果たします。
1960年(昭和35)、
船齢30年を迎えて
とうとう引退が決定。
太平洋横断254回、
先客数は2万5千余名に達します。
引退後は現在の地に係留保存され、
横浜のシンボルとして
長い間親しまれています。
華やかな時代に誕生したにも関わらず、
時代の波にのまれながら、
その役割を変えて貢献する姿を
思い浮かべると、
何だか涙が出てきます。
(年々涙腺弱くなっている…)
昭和は多くの人が過酷な経験をした
時代だと思いますが、
その人々の傍らで
氷川丸が共に刻んだ歴史を
後世に伝えていることにも
意味を感じました。
次回は歴史もさることながら、
氷川丸の見どころである
芸術と技術の2つの側面を中心に
ご紹介したいと思います。
(つづく)
最後までお読みいただき、
ありがとうございました!
●Information●
●電話 | 045-641-4362 |
●住所 | 神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先 |
●開館時間 | 10:00~17:00【最終入館16:30まで】 |
●閉館日 | 月曜日 (祝日の場合は開館、翌平日休館) |
●入館料 | 一般300円他 |
●開館時間や閉館日などは変更となる場合がありますので、詳細は施設にご確認ください。 |
●参考●
「日本郵船氷川丸」ホームページ
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